ひさしぶりに「かけら。」について考える #
昨年の春「声のかけら。 」に触れて以来、自分のやるべきことは「言葉にならない何かを紡いで表現する」ということになっているわけで、その一環として「光のかけら。」計画など発動したり失速したり消滅したりしたのだが、言葉でなければ音だろうか、映像だろうか、ってことで安直に光と言っていただけで、本質は「言葉にならない何か」なのであり、それは「言葉にならない言葉」(そういう唄があったな) かもしれない。
仮にそれが「光」だったとしても、写真だったり Flash だったりはあくまでもそれが表出したひとつの形であって、せめてその形だけでも押さえておこう、という浅はかな考えが、自分を画像系のプログラミング技術習得に走らせたり、Exif 情報を知ることにかりたてたりするのだ。Exif という情報を得るためだけなら既に存在する優秀なツールを使えばよいのだが、そのルールを自分で理解することで、「紡ぎ方」が思い浮かぶのではないか、と。
世界のどこかに住んでいる「誰か」の「言葉にならない何か」は、ひとつひとつは小さな「かけら。」かもしれないが、それを紡いでいった結果、そこに何が生まれるのか。それを考え、実現することが自分のやるべきこと。
という事を再確認するために、文章にしてみた。
ちなみにワシは宗教の人ではなく、あえて言えば実家は禅宗だが自分自身に信仰心はなく、八百万の神々の存在は信じており、宗教の持つパワーはすごいと思っている。新興宗教には全く興味なし。金儲けにもそれほど興味なし。そういう人間が考える「かけら。」は、さて何でしょうね。